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とば屋の由緒によれば 江戸の大火よりずっとあとに小浜の大の記載がありました。 嘉永6年(1854年)3月10日南風激シク吹キ荒レ肝ヲ冷ヤシテ警戒ナシタル夜、 今在家番屋ノ老婆板塀ノ倒レヲ直サン持テ出テシ提灯ノ火ヲ誤マリ小濱町中ノ大火災ノミカ川向ヒ四ツ谷ヘ送風ノ為火飛ヒ折角持チ出デシ衣服夜具手道具ハ一点モ不残灰燼トナリ松平屋敷マデモ延焼 ・・・・・と生々しく記載してあり町全体が丸焼けになった様子が伝えられています。
子供等は、乳母とともに非難すと書き記してありすぐに屋敷を建てる術もなく現在の所に仮小屋を建つとあるので今の所は、 仮小屋の後なのかと 火事になる前の隆盛ぶりが覗えますが資料は、何も残っては、おりません。 将来の目途を計りおりし時 安政5年8月(1858年) 須崎町船屋イヘイ船小屋ヨリ出火シ北風烈シク遂ニ延焼シテ大火災トナル又類焼ス ・・・・とあり今ならばテレビのニュースに大きく取り上げられそうな小さな町の続いて起きた大きな災害でした。
とば屋の先祖は危機一髪、國札を背に負い避難したので仮屋は、燃えましたが蔵は残り庇で住まいし疎の後、無事であった國札にて家を建つとあります。
親戚に大きな藩御用達の荒物問屋がありそこは最初の火事の後3年がかりで新築なったところまた全焼すとあり不運の様子が覗えますが当時の資金力の大きさも察せられます。
とば屋のあった通りは、質屋町というのですがそのあと建った旧家の商家は、二階は軒低く造作も粗末で3次災害への恐怖と道具などすぐ出せるようにとの想いが感じられます。 さてその災害時家業のお酢づくりは、どうしていたのでしょう・・詳しい記載は、ないのですが当時は復興にたいへんだったと思われますが、 男の衣類や絹を船頭(小浜は、北前船で栄えていた)に売り醸造用の米を仕込んだと記載があり蔵の中の衣類を放し家業を継続させたものと当事の苦労がしのばれます。
当時は、誰々の媒介でとか誰々の世話でとか親戚が心配しという記載がたくさん出で来るので親せき知人が助け合ってとば屋の復興に再興に尽くしていただいたものと150年前の皆様に感謝せずにはいられません。 |