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前回は火事の話を書きました。その時のとば屋の様子は映画やテレビドラマで 見る時代を参考に想像するしか仕方ありません。しかしながら、その時代「とば屋 治郎右衛門」が実在し、現在のわが家があることだけは、事実であります。 大火事での大災害の折、仮屋や蔵の庇に住居し酢醸造の継続をしたことや、衣服や 絹を売り原料の米の仕入れにあてたことなどが記録されています。
その頃の隆盛ぶ りからみると家屋は、すぐにでも再建できたのではないかと思うのですが、まず酢の 製造が先で私邸は最後になったようです。 しかしながらそれが幸いして最初の大火 事の後、わずか4年後の2度目の大火事の時は、まだ仮屋住まいであったため被害を免 れその後に住居をなしたと記載があります。 もう一つ嫁の私が考察するに(なんか偉そうですね。)4代6代7代は続けて継 子なしとして同じ親戚うちから養子にきてもらい代を重ねています。
期待され養子 となった代は、やはり親に遠慮をかさね家の大事を考えたのではと、、、、もと他 人である嫁の私は12代目になる主人の口ぐせなどを聞くにつけ、その思考のルーツも またそのころからの流れを汲んでいるように思われてなりません。それは、日本の伝 統のすばらしさでもあると私は考えるのですが、 代々のなかでも退隠して治郎右衛 門を譲ったのは、8代だけで72歳まで長命しています。
当時の苦労と災害のあとの復興の大変さが由緒に詳しく書かれています。 「一改革イタシ一層力オ尽シテ働キ知ラズ識ラズノウチニ勘定モ立チテ日々隆盛ノ今 日トナレリ」未曾有の大火災に2度もあいながら このようなことばが子孫に残せると したら大変な功績があったと思われます。
他家より養子として入った8代のその家庭 生活は、波乱万丈で京都の医師の娘を妻にしていますが子供を一歳で亡くし後を追う ように妻は、 病死、後妻は、2男4女をあげていますが9代と長女以外はすべて若 くして亡くなっております。 経済生活が安定すれば家庭生活に波乱が訪れる 世の 常の縮図を見る様なこの時代です。
次回は、9代の治郎右衛門・・・・若い時は、放蕩と記されています。 |